聖魔の光石

三日月の夜

 日没。地平線の少し上に三日月が浮かんでいた。ゼトは、王女エイリークと共にフレリアを目指していた。
 馬を走らせながら、じんじんとした痛みを感じる。特に大きく揺れるたび、痛みが強まり、ゼトは左肩を気にした。ヴァルターによってつけられた傷から流れ出る血はなかなか止まらない。共に馬に乗る王女の服にまで、滲み落ちた血がついてしまっていた。

 小石に躓いたのか、馬が大きく均衡を崩した。落馬しないよう、必死に手綱を握りしめながら、華奢な王女の体を支える。
「ゼト、そろそろ休みませんか」
 揺れた直後、ゼトが怪我を気にしたことを察したらしい。王女は控えめに声をかけてきた。ルネス城を出る前に、父王と離れることを嫌がり泣いていたとは思えないほど、その表情は穏やかだった。

 ゼトは、周囲を見渡してから王女の提案に頷いた。二人が目指すフレリア王都まで、急いでも三日はかかる。焦って休息を怠れば、いざという時に手遅れになる。
 幸い、現在地から十分とかからない場所に、身を隠すのにちょうど良い森もあった。あの中であれば、万が一グラドの飛行兵が探しに来ても、そう簡単には見つけられないはずだ。

 暗い森の中で、小さな焚き火をつくる。王女は火に手をかざし、温かいですね、とすこし泣きそうな顔で言った。
 城から持ち出した食糧を渡す。普段と比べれば随分劣るはずの乾いた食事にも、王女は不満をこぼさなかった。
 静かな空気。川が流れる音。焚き火に薪を足すと、ぱちぱちと音がなる。ゆれる炎を映す王女の瞳は、やはりすこし泣きそうだった。
「ファード様とエフラム様がご心配ですか?」
「すみません。あなたに励まされて、下を向いてばかりはいられないと、理解はしているのです」
 王女は、家族と仲が良かった。自身の身も安全だとは言えない状況でも、離れている父と兄が気になるのは当然だろう。
 それに、悲しい想像から目を背け続けることは難しい。
「エイリーク様。……今は私も見ておりません」
 ゼトは王女に背を向けた。
 本当は、二人とも無事だと励ましたかった。けれど、王女をフレリアへ逃すよう命じた時の陛下は、死を覚悟した顔をしていた。
 二人が強いことはすでにお伝えしている。
 これ以上、生きていることだけを無理に信じて前を向けば、王女の清廉な笑顔の奥に深い影が残るだろう。
「父上、兄上……ご無事でいてください」
 音を殺して静かに、静かにすすり泣く音が、暗闇にとけていった。
 
「ゼト、もう大丈夫です」
 振り向くと、火の勢いが弱まった焚き火の奥で、王女が柔らかに微笑んでいた。腫れた瞳は隠せてないが、泣き出しそうな気配は消えている。
「ありがとうございました。私はあなたに助けられてばかりですね。……ゼト、お礼とは違いますが、すこし傷口を見せてください」
 ゼトは慎重に薪を足した。また、ぱちぱちと音がなる。
「どうか、この傷はお気になさらず。それよりも、貴方様のお身体を休めてください」
「ゼトは休まないのですか」
「私には、エイリーク様をお守りする使命があります」
「では、傷口の処置をしたら休みます」
 王女は、すでにゼトの左隣に来ていた。

 平時であれば主に傷口を手当てさせるなど考えられない。だが、ゼトの傷口は一人で処置するには難しい場所にある。日中も、急いでいたとはいえ、一人では対処できずに王女の手を借りていた。
 ゼトはおずおずと傷口を王女に向けた。
「必ず、休むとお約束ください」
 王女ははっきりと頷いた。
 
 止血のために固く結ばれた布を、王女は細い指先で器用にほどいた。
「本当は、もう少し早く替えたかったんですよ」
 そう言いながら、エイリークは布を畳んで脇においた。
 傷口を塞ぐようにあてた布は、肌に張りついていた。
 王女はこれにも躊躇わずに触れた。ゆっくりと空気に触れる部分が増えるたび、鈍い痛みが強まっていく。
 ゼトは情けない声を出さないように唇を噛みしめた。王女は何も言わずに真っ赤な布を剥がしきると、先ほど置いた布に重ねた。色白い王女の手は、薄暗くてもはっきりとわかるほど血で汚れている。しかし、血で汚れたことへの嫌悪を王女はかけらも見せなかった。
「少し洗いますね」
 水筒からとくとくと流れでた水が傷に染みる。
「——くっ」
 喉奥から漏れた声に、王女は意外にも動じなかった。
「もう少しの辛抱です」
 水筒の中が空になるまで、傷口の洗浄は続いた。
 洗い終わると、王女は膝の上に置いていた清潔な布で、肌に残る水を拭った。さらにその下にあった布を傷口へ重ねてくれた。
「どうか、はやく良くなってください」
「エイリーク様のおかげで、だいぶ良くなりました」
「ゼト、私は本当に心配しているのですよ。私がいなければ、きっとあなたは怪我をしなかった……」
「ですが、おかげで貴方を守れました」
 ゼトは、この傷の痛みを栄誉とすら感じていた。まだ見習い騎士の頃、当時の騎士団長が背中の傷を誇っていたように、王女を守ってできた負傷は誇れるものだと思っていた。
 ただ一つこの傷を悔やむときがあるとすれば、ゼトが怪我により王女を守りきれなかった時だけだ。
「ゼトは、優しいですね。私が不安にならないよう、ずっと気を遣ってくれているのでしょう」
 王女が思うような純粋な優しさではない。
 包帯を巻き終わり離れていく指先を、ゼトは恋しく思っていた。

 フレリアの国境に近づくまで、グラドの兵とは一度も遭遇しなかった。
「この先の橋を超えればフレリア領です。……レイピアはお持ちですか?」
「ええ、ここに」
「私に万一のことがあった時は、どうかエイリーク様だけでもフレリアへお逃げください」
 瞳をまっすぐに見つめながら言い聞かせると、王女は躊躇いがちに頷いた。
「では、参りましょう」

「ちょっと待ちな」
 振り向けばグラド兵がいた。
「ルネスの残兵どもめ、逃さないぞ」
 不幸中の幸いというべきか、姿を見せた敵は片手で数える程度だった。服装からして手だれもいなさそうだ。ゼトが万全であれば、多対一であろうと遅れをとる相手ではない。
「エイリーク様、お下がりください」
 王女を馬からおろし、槍を構える。左肩は痛むが戦えないほどではない。
 もう、フレリアも間近。いざとなればゼトが橋を塞ぎ、王女だけでも逃がせば良い。

 しかし、王女は下がらなかった。グラド兵が、斧を振り下ろす。
「エイリーク様!」
 すかさず、王女に攻撃をしかけた兵をめがけて槍を突きだした。
「大丈夫です、かわしました」
「あとは私が食い止めます。エイリーク様はお先に」
「いいえ、ゼト。私も共に戦います」
 レイピアが敵の顔に傷をつけ、清らかな青髪に返り血が飛ぶ。心優しい王女には似つかわしくない汚れに、ゼトは顔をしかめたくなった。
 だが、王女が戦うと決めたのなら、この状況で止めることはかえって危険だ。せめて守り通すと近い、ゼトは武器を持ち変えた。相手が斧を使うなら、槍での戦いは得策ではない。
 王女を狙う敵を、ゼトはすかさず仕留めていった。
 最後に一人残された敵将に斬りかかった時、無理に動かしていた肩が悲鳴をあげた。
 馬の動きが乱れ、金属同士が擦れる甲高い音が響く。ゼトの左肩の鎧を、敵の斧が掠めたのだ。

「くっ——」
 普段であれば、大袈裟に痛がる攻撃ではない。だが、当たりどころが悪かった。強い衝撃に、じんじんと痛みが迫り上がる。
「ゼト、やはり傷口が」
 駆け寄ってきた王女は、勇ましくも敵に剣を向けた。
「あなたの相手はこの私です」
 耐え難い痛みの中で、ゼトはエイリークのレイピアが放つ銀の残像に見惚れていた。
 敵が膝を突き、斧が地面へと投げ捨てられる。王女は、慈悲を残さずに敵の首を裂いた。

「……ごめんなさい」

 相手を殺したくない、せめてもの情けの言葉。王女は青ざめながらも振り向いて、ゼトに笑いかけてくれた。
「ゼト……」
 その声は震えていた。
「エイリーク様、お怪我は」
「あ……、いえ……。私なら平気です」
「ですがお顔の色が……」
「大丈夫です……。ええ、大丈夫。これが、戦争なのですね。どうしてグラド帝国はこのような戦を……」
 輝きの鈍った武器が地面へ落ちる。
 少女は、震える手をじっと見つめていた。
「エイリーク様……」

 かけるべき言葉が見つからない。数日の間に彼女が重ねた痛みはあまりにも多すぎた。
 ゼトが言葉を見つけられずにいるうちに、少女は武器を拾いあげた。ゼトを見つめる顔にはまだ恐れがあったが、続く言葉は力強かった。
「行きましょう、ゼト。失われた祖国を取り戻し、父上や兄上と再会するその日まで、私は決してくじけたりしません」
 なんと、勇敢なのだろう。
 ゼトはエイリークの気高さに、主への尊敬を超えた感情を抱いてしまった。
「ええ、お供いたします」
 エイリークを再び馬に乗せながら、ゼトはこの温もりを守りぬくと、改めて誓った。