聖魔の光石

兄弟

フランツ
 
 物心ついた頃には、フランツの家族は兄しかいなかった。母はフランツが一歳の時に、父はその四年後に旅立った。
 母との記憶は全くないが、父のことは少しだけ覚えている。背中に大きな傷があったこと、兄に剣を教えていたこと、滅多に家に帰らないが、二人の誕生日には必ず共にいてくれたこと。
 父はフランツの自慢だった。若くして騎士団の団長になった父は、陛下からの信頼が厚く、多くの部下に慕われていた。両親を失った二人が不自由せずに暮らせたのも、父が築いた信頼のおかげだ。
 騎士団長の息子という理由で、陛下も、父の部下だった騎士も、その息子を気にかけてくれた。父はいなくなってしまったが、残してくれたものは常に身近にあった。
 一方で、好奇の視線もそれなりにあった。特に兄は、父の無念を含んだ過剰な期待と妬心を一身に受けていた。
 年上からは父のような勇猛な騎士になることを望まれ、同年代からは実力以上の評価を受けているとやっかまれながら、兄はいつも飄々としていた。
「言いたいやつには言わせておけばいいんだよ」
 兄はそう言ってフランツの心配にとりあわなかったが、一人で絵を描いている時の顔は寂しげだった。

 そんな兄の後を追いかけて、フランツも騎士になる道を選んだ。二人きりの家族。離れ離れになるよりも、少しでも共にある道を選びたかった。
 何より、フランツは淡い記憶に残る父に焦がれていた。ほとんど覚えていない、広くたくましい背中が大好きで仕方なかった。
 
 フランツが、騎士を目指すため王城で下働きをすると言った時、兄は一瞬だけ顔をしかめた。
「お前は無理に父上の後を継がなくてもいいんだぞ」
「無理じゃありません。僕が騎士に憧れているんです」
 自分と全く同じ新緑の瞳を見つめながら言い切ると、兄はそれきり賛成も反対もしなかった。

 当時すでに見習い騎士になっていた兄は、時間を見つけては父の技を教えにきてくれた。
「兄さん、また僕のところに来て大丈夫なんですか?」
「なんだ、俺は邪魔か?」
「兄さんの気遣いは嬉しいです」
 けれど、最近は兄が絵を描く姿を見ていない。フランツが騎士になると言ってから、おどけた兄は少し窮屈になったようだった。
「お前は余計な心配するな。あまり堅物だと肩が凝るぞ」
「はい……」
 兄さんこそ、とは言えなかった。
 淡い父への憧れを追いかけるなら、兄に武を教わるしかない。残された唯一の家族のはずなのに。フランツは何も返せない。
 兄の負担となるもどかしさが、真夜中の雪のように人知れず積もっていく。

 兄が騎士として叙勲をうける前日。フランツが抱いていたもどかしさは最悪の形で表出した。
 いよいよ騎士になるというのに、剣を教えに中庭まで来た兄は、いつもと何一つ変わらなかった。フランツだけが、兄が騎士になるという事実を重く受け止めていた。
 その日、フランツは兄の門出を祝うつもりだった。贈り物として、小遣いをかき集めて買った筆記具だって用意していた。
 それなのに。稽古も一区切りつき「兄さん、いよいよ明日ですね」と言ったフランツに、兄はおどけて言ったのだ。
「いやあ、俺が騎士になるなんて参っちゃうね」
 それは、紛れもない兄の本音だと思った。
 フランツが騎士を目指す時、一瞬しかめられた顔が脳裏をよぎる。
 兄はその時言っていた。無理に父の後を継がなくていい。
 兄はフランツとは違う。騎士になりたくて道を選んだわけではない。
 それなのに、僕は。
「……兄さん。もう、僕のところに来ないでください」
 間違えた、と思った時には手遅れだった。おそるおそる見た表情は硬くひきつっていた。兄が何かを言いかけた時、強風が吹いた。寂しく響く枯葉の音が、兄の言葉をかき消す。
 ちょうど結い直すところだった兄の長髪が、二人を隔てた。
 ようやく顔を見れた時、兄は、年近い騎士に妬まれた時と同じ笑顔を浮かべていた。
「はははは、そうか。元気でいろよ」
 胸がじくじくと痛い。ちがう。そんな顔をして欲しかったわけじゃない。
「僕はただ、兄さんに自分の時間を……」
 言い訳だとわかっている。兄へ向けた言葉が、純粋な心配だけではないことはフランツ自身が一番よく理解していた。
 フランツは、兄に感謝し心配する奥底で、ほんのわずかに兄を羨んでいた。兄だけが親を覚えていることが、時々悔しくて、寂しくて、妬ましくて仕方がなかった。
 それなのに、兄は親を独り占めしない。父が残した武を、自分の時間を犠牲にしてまでフランツに残してくれる。優しい兄で大好きだった。大好きだから、嫌だった。
 騎士になりたいのはフランツで、兄は騎士にさせられただけだ。フランツの夢は兄の我慢の上にあった。
 ——騎士になるなんて、参っちゃうねえ。
 その言葉を聞いた時、今までの選択を責められた気がした。
「わかってるって、思春期だよな」
 兄はそう言って、また形だけの笑顔を作った。
 思春期、の一言で片付く感情であれば、どれほどよかったか。
「それじゃ、俺が恋しくなったらまた話しかけろよ」
 兄は最後までおどけた態度で、ひらひらと手を振りながら、離れてしまった。

 一人になったフランツは、兄に渡すつもりで買ったものを眺めながらため息をついた。
「どうしてあんなこと言っちゃったんだろう……」
 涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。皆が使う場所であることも忘れ去ってフランツはうずくまった。
 そうしてどれほど経っただろうか。冷たい風に体温を奪われ、指先から熱がなくなった頃、困りきった声がした。
「どうしたんだ?」
 初めて見るルネスの騎士だった。けれど、フランツはすぐにその人が誰か分かった。
 ルネスでは珍しい赤色の髪。切長ではあるが優しい印象を与える瞳。胸元できらめく部隊長の証。間違いない。
 真に清廉な銀の騎士ゼト。戦場では銀の槍を手に戦い、平時には一切の欲を持たず主に尽くす姿を、人はそう呼ぶ。
 若くして国王直属の部隊長に抜擢されたこともあり、次の騎士団長は彼だとも噂されるほど、優秀な騎士だ。
「私でよければ話を聞こう」
 騎士は服が汚れるのも厭わずフランツの隣にしゃがみこんだ。
「そんな、恐れおおいです」
「私が君くらいの時も、同じように親切にしてもらったことがあるんだ」
 だから気にするなと言って、騎士は印象よりも大きく笑った。
「その辺の石だと思って話してごらん」
「石だなんて、とんでもありません」
「君は騎士を目指している子だね」
「はい」
「稽古で叱られたのかな?」
「違います。僕が、ひどいことを言ってしまったんです……」
「ひどいこと?」
 気づけばフランツは全てを話していた。最後まで聞いた騎士は、ひどく悲しげな顔をして言った。
「それは今すぐにでも渡したほうがいい。君の兄もわかってくれるはずだ」
「どうしてですか」
「君に言うのは酷かもしれないが、命は待ってくれない。どんなに優秀な騎士でも、亡くなる時は一瞬だ」
 フランツは、遠い記憶の中でふりしきる雨を思い出した。団長になるほど優秀だった父も、突然帰らない人となった。
「僕、兄さんのところへ行ってきます。ありがとうございました」
「ああ、行ってらっしゃい」

フォルデ

 騎士になる前日。淡い落胆とともに夕暮れへ向かって歩いていると、友カイルの後ろ姿をみつけた。
 石畳をならしながら歩く姿は普段よりもぎこちない。明日をただの通過点と捉えていそうな友は、意外にも緊張しているようだった。
「相変わらず肩肘張ってんな」
 軽く肩を叩くと、カイルは剣に手を添えながらふりむいた。
 高まる警戒。
 警戒はすぐに緩み、カイルが深いため息を吐いた。
「……なんだフォルデか。驚かさないでくれ」
「悪いな。気づいているかと思ったんだよ」
「確かに不覚だった。明日には騎士になるというのにこれでは……」
 友はぶつくさと言いながら、思い詰めた顔をしている。
「そう気にすんなって。お前、いつもは気づくじゃないか。騎士になるからって気にしすぎなんだよ」
「お前は叙勲の栄誉を何だと思って……」
「そういうことじゃなくてさ、お前が目指すのはただの身分じゃないだろう。明日は始まりにすぎないってことだ」
「相変わらず都合がいい。……だが、確かにその通りだな」
 元気を取り戻した友に反して、フォルデは淡い落胆を思い出した。
 騎士になることは確かに始まりにすぎない。だが、まさかその直前に、弟から嫌われるとは思っていなかった。
 フォルデは弟のため、柄にもなく、兄であろうと努めてきたはずだった。
 いったい何が悪かったんだか。
「フォルデ。お前、さっきから顔が暗いぞ」
「……まあ、さすがに不安はあるのかもな」
「始まりに過ぎないんじゃなかったのか」
「まあ、そうなんだけどさ。そもそも俺に騎士なんて務まるのかねー」
 ついこぼした弱音をカイルは笑わなかった。カイル相手だと、どうにも真面目にあてられて余計なことを話してしまう。
「お前なら心配ないだろう。……まあ、もう少し真面目さは欲しいが」
 カイルはなぜか遠くを見つめて口もとに笑みを浮かべた。

「フランツもそう思うよな?」
 カイルの話しかけた方角をみれば、なぜか弟の姿があった。走ってきたらしく、髪はみだれ、肩が上下を繰り返している。
「兄さん、もう来ないでなんて言ってごめんなさい」
 息を切らしながらフランツが言う。フォルデは一瞬カイルに視線をやったが、気をまわしたつもりか既に背中を向けていた。
「あ、ああ。別にいいよ。もう兄が恋しくなったのか」
「からかわないでください。でも、兄さんはいつだって僕の大事な家族です」
 照れくさそうに俯いたフランツにつられて気恥ずかしくなる。照れくさい気持ちを誤魔化そうと、普段のおどけた調子をどうにか思い出した。
「嬉しいこと言ってくれるねー」
「兄さん、これを」
 フランツから受け取った箱には、色鉛筆が入っていた。
「騎士になったら絵を描く時間なんてないかもしれないけど。難しく考えすぎるなと、いつも教えてくれたのは兄さんだから。……僕が兄さんの時間を心配していたのは本当なんです」
 夕陽に照らされた瞳はまっすぐにフォルデをみている。
「お前も兄の不真面目に手を貸してくれるようになったか」
「そんなこと言うなら返してください」
「冗談だよ。ありがとう」
 弟は寂しそうに笑ってから、すこし泣きそうな顔をした。
「……兄さん、僕」
 兄の分まで生真面目な弟は、悔やんでいる言葉の理由を最後まで説明しようとしているのかもしれない。
「言わなくていい。俺もわかっているつもりだからさ。ずっと、寂しかったよな」
 弟の嫉妬に気づかないほど、鈍感ではないつもりだ。両親を知らない弟が、少しでも親との思い出を持つ兄を羨ましく思うのは仕方ない。
 フォルデ自身、弟のことは憐れに思っている。だから兄であろうとした。自分が受けた親の愛を、少しでもフランツに残せるように。
「また、お前のところに行ってもいいか?」
「はい、待っています」
「……こんな俺に務まるかわからないけどさ、俺も、お前が恥ずかしくない程度にはちゃんとするよ」
 贈り物を握りしめながら、騎士になる覚悟を固める。
 弟は、春の花のように顔を綻ばせた。
「兄さんを恥ずかしく思ったことなんて、一度もありませんよ」